素直な気持ちに従って動いた
前の前の記事で、二人で会いたいと言われるようになったと書きましたがその後日談。
彼は、「もし会うとしたら、旦那さんに、ちゃんと私(彼のこと)とあうことを伝えてからきてください」そう言っていました。
これは、当時、”今世はもう結婚しない”と決めていた彼は特定の人を作らずにフリーの状態でした。
フリーである自分のことで余計な心配をしなくてもよいようにと彼なりの女性の配偶者に対する誠意でもあり、相手の女性に対しては、恋愛対象ではないからと、勘違いを防ぐためでもあったそうです。
そして、これは、”彼自身今世結婚するつもりがない”ということが”前提”なので、既婚女性だけでなく、フリーの女性にも同様に勘違いのないようにと伝えていたことだったそうです。
(この彼の不思議な謎行動は、後日、機会があり、彼の異性の友人たちに本当かどうなのかの話を聞けたのですが、嘘偽りなく、彼は、配偶者にきちんと紹介され、許可をもらっていたんだそうです。 その女性たちの中には、”あなたも、そうあるといいわね”・・・と言われる方もいました。)
なのですが、それ以前に、もともと、男友達と二人であったりとかしない私は、異性と二人で会うこと自体自分の中のタブーに思いっきり引っ掛かっていましたし、もともと、友人として彼のことをみたいけど、そう見れない何かを抱えていたので、全くそう捉えることはできませんでした。
そして、おいうちをかけるように、”そういったこと(二人で会うこと)は嫌だからしないでね”・・・と散々元旦那さんに伝えてきていたのに、なんて顔していえばいいんだ・・・って感じで。
彼のことは大切に想ってもいい。
やっと、そう思えたところ。
完全な友達ならまだしも、今回の彼は、結婚する気がないとはいっても、”私に対しての明らかな氣”、”好き”、”愛”はある。
その後も、元旦那さんに何も言えないまま、二人で会うことは”しない”ままでした。
だけど、その間もイベントの打ち上げがあったり、イベント仲間との家族ぐるみでのお出かけがあったりしたので、そういったものには参加していて、彼とは、ほかの人も一緒にという形で何度か会いました。
彼からの毎日のメールは相変わらず続いていました。
おはようから、おやすみまで。
そして、会いたい・・・の文字が並びました。
悶々とした日々は続きました。
そうしたある日、決心します。
やっぱり、私も会いたい。
彼のことは、不思議なことだらけわからないことだらけ、むしろ、苦手なタイプなのに、何故か家族と同じくらいにまで大切に感じてしまうこの人をもっと知りたい。
後悔はしたくない。
自分の中にある素直な気持ちを認めてあげたい。
彼にやっぱり会いたい。
ほかのリスクと思えること、メリット、デメリットいろいろ考えました。
でも、考えてもそこにあるのは、どれをどうしたとしても"後悔”があるのかもしれないなということ。
それなら、自分がいちばんしたいことをやろう。
気持ちに忠実でいよう。
旦那さんには、
「あなたと同じくらい、
家族と同じくらい、
まわりにいるガーディアンと同じくらい、
大切に思えてしまう方に出会いました」
と伝えました。
私にとっては、この一言は、崖から飛び降りるくらいの気持ち。
自分の中に課していたものが自分にとっては、それだけ大きかったからなのですが。
彼と出会って二ヶ月目のことです。
(実際の期間的とすると、とても短いように感じますが、過去世の思いが一気に浮上していたことと、彼からの毎日のたくさんのメール、そのやりとりから、私の中では、かなり長い期間がたった感じがしていました。)
一日一日が何万年も生きた感じでした(笑)
ミラクルは加速する
待ちに待ったイベントの打ち上げ。
二人で会いたいという気持ちには答えられないままメールのやり取りが続いてる中で久しぶりに堂々と彼に会える口実つきの日(笑)
会えるだけでも嬉しいのに、彼が私に何かをくれました。
包をぽんと渡されたので、おうちに帰ってから楽しみにあけてみようと思ったら、『開けないの?』と言われて、その場でopen 。
中から可愛いハンドメイドのペンダントがでてきました。
ちょっと、変わった形のストーンが可愛い(’-’*)♪
彼は、この頃、ハンドメイドアクセサリーを作って販売していました。
打ち上げ後、帰宅してからも、また二人でメールのやりとり。
会えないけど、お互いをもっと感じたいので、”二人の写真があったらいいねー”ってメールのやりとりしていてる最中のこと。
彼の方に、昼間、打ち上げに一緒にいたメンバーからちょうどメールが来ました。
一緒に写真も送られてきたそうです。
わたしのところにもメールはあったけど、写真はありませんでした。既婚だからかな?
その写真にテンションがあがる彼。
彼に届いたのは打ち上げ中に、打ち上げ中に、おとなり同士に立ってた私たちをこっそり写した写真でした。しかもふたりだけのツーショットのような形でまわりにはだれもいませんでした。すごい~~。
だけど、すっごく遠くから写した二人のツーショットで、遠すぎて、どれだけ拡大しても顔は見えませんでした(笑)
彼がその写真の顔の部分を拡大して、なにかわからないようなもやもやになってる状態のスクショとかおくってきて、「顔みえない」とか言ってくるのがまた可愛らしくて笑えました。
でも、とてもとても嬉しかったのを覚えています。
それにしても、すごくタイミングよく送られて来た写真。
本当に、その会話をしてる最中でした。
もともと、願いは叶う方だったけど、彼と一緒になってから、そのペースがさらに早くなってるなぁと思いました。
でも、よくみると、彼、なにげにカメラ目線で、ブログ貼り付け前の加工前の写真では顔はモヤモヤだけど、ピースしてるのまでわかりました(笑)
彼の真意はわからないけど。
二人が出会うきっかけとなったイベントの翌日、イザナミとイザナギ、くくり姫様の関係の神社のお朔参りで偶然に彼とばったり会いました。
その偶然にバッタリ出会ったお朔参りの日の後から彼から来るメールは、内容が少し変わりました。
これまでの日常の話以外に、『二人で会いたい』の文字が急激に増えました。
でも、「もし会えるのであれば、会うときには、『旦那さんには私(彼)のことはちゃんと伝えなさい』」と言いました。
彼の中では、この時点では、既婚者である私に対して、どうこうしようという氣持ちはなかったそうです。
相手の幸せ、(=家庭)を壊さずに、ただの友達として会えればというつもりだったようです。
私としては、彼のことは大切に想ってもいい・・・やっと、そう思えたところに、その急展開。
そして、なんとも、変な宣言をさせるものだなと。
もともと、私に会う前からも、ややこしいことになるのを嫌った彼は、既婚者の女性と二人になる時には、今回の私に限らず、相手の旦那さんに会う前に了承を得る様に毎回伝えていたそうです。スピリチュアル系の学校に通っていた影響なのか、彼のまわりには異様に女性の友人が多くいました。
それにしても、いちいち、そんなこと本当にするん???と、疑ったのだけど、実際に、共通の友人もそういった形で旦那さんを彼に紹介をしてから二人で会っているし、公認で、ほかの方も、二人だけであっていた既婚女性に関しては、旦那さん公認のようでした。
いろいろと謎な人。不思議なことだらけ(笑)変わった人。
・・・・
と、私は、この時は、宣言させることに関しては、おもっていたのですが、この行動って、彼の中にも二人で会うことはやましいことにもなりかねないという周りの認識があるということを知っていて、それを自分自身その通りだと受け入れ自分基準の一つとして大切に扱いもっているということ。
今回の行動も、だからこその行動で、そうは、ならないための意思表示であったのだろうなと思います。
自分がそうなりたくもないし、そうされたくもない。浮気や、不倫などに、なにかしらの拒否があるからこその行動。
その時は、自分のことでいっぱいだったから思わなかったけど、これを書きながらおもいました。
自分に許可を出す。”今”の自分の気持ちを大切にしてあげたい
今日の記事は、彼と出会って一ヶ月半ほど過ぎた頃のわたしのココロモヨウについて少し。
彼と出会ってからずっとこれまでの魂の旅のなかで感じていた様々ないつかの感情を感じていました。
感じていたというのは、ちょっと語弊があります。
率先して感じていたわけではなく、とめどもなく溢れ感じざる負えなかった。
いつもの客観視ができないくらいにヘビーなものでした。
彼(彼女)を好きな気持ち、恐れる気持ち、尊敬する気持ち、いつかの後悔、家族愛、夫婦愛、親子愛、いろんな過去世の、いろんなものが一気にふきでてきました。
これまでも、過去世がふきでることはたびたびあったけど、こんなに、一気に、いろんな初めて感じるものが”同時”に吹き出すことはなく、私自身、なかなかないというか、初めての体験でした。
しかも、どれもこれもが、ちょっとヘビーな内容でがっつりと、感情をひきずってるものばかりで久しぶりに大変でした。
そんな中でも、冷静にいなきゃと、客観視&自己分析。
”今の現世の自分は、彼のことどう思ってるんだろうか?”
”イマの私も彼にキュンとしてるのだろうか?”
”過去世の感情に記憶に振り回されてるだけじゃないかな?”
そんなことをずっと自分に問いかけました。
私が自分と最大限に向き合ってるそのころ、同時並行で、現実的には、なぜか、”彼氏なのか?”というくらいに、友達の量をはるかに越えたメールが彼から毎日きていました。
(というか、彼氏だとしてもこんなにたくさんのメールのやり取りを毎日続けてしたことなんてないよ、これまでと思うくらいの量でした・笑)
出会って一ヶ月半、私は私のことをずっと観察しつづけました。
そして、過去世に降り回れてるだけじゃないナニカを見つけてしまいました。
観察して気づいたのは、この一ヶ月半で、旦那や家族、自分を見守ってくれて日々やりとりしているガーディアンたちと同じくらいに、彼のことを、今も昔も未来も魂で大切に感じてる自分。
それと、そんなことを思ってはダメだという自分基準をみつけました。基準というより、自分戒律に近いかな・・・。なんの基準かというと、恋愛、夫婦のありかたに関する考えです。
その自分基準は、これまでの魂の傷や、後悔や、今世選んできた状況、考え方、などをベースとしてできあがってました。
それは、今世のじぶんのものの考え方、捉え方、じぶんのまわりにおきるできごとのベースを構成しているエネルギー。
わたしの中で芽生えた彼への感情は、しっかりと、その自分戒律にひっかかっていました。すでにアウト。
このベースとなるものから出来てるじぶん基準を、今の自分が守るのも、それとは違った選択を選び守らないのも、じぶんで決めて良いことは知っていました。
ですが”それでもいいよと守らない方を選んでもいいよ!”と、認めてあげるのは大変でした。
すっかり染み付いたそのモノの捉え方、感覚は、”そんなもの到底みとめられないだろう??”そう言っていました。
だけど、”彼のことが大切に思えてるという気持ち”だけは認めてあげたい。
自分に気持ちを大切にしてあげたい。
正直に、自分にまっすぐでいたい。
そう思う自分がいました。
”そう思うのは、これは、今世の自分?”
これもまた問いかけました。
それは今の自分が思っているように思えました。
自分が特に大切に思う対象の中に加えたい。
だからといって、彼と今後、どうこうしたいわけじゃない。
大切に感じてる気持ちだけでも認めたい。
このことを問いかけながら、すごく思ったのは、”感情にふたして後悔する人生はいやだ。”ということ。
だれかのことを心の中で思うくらいなら、どうってことないじゃない?そう思われる方も読まれてる方の中にはたくさんいらっしゃると思うのですが、私が今世いきるうえでセットアップしてきた情報ではそれを選ぶのは、崖から飛び降りるくらいの決断でした。
なんて、大げさな!!
そう思うかもしれないのですが、きっと、誰にでも、゛崖から飛び降りるくらいに大変に感じている、そう思えるようななにか”ってあるのかなと思います。それがたまたまた私はこの内容だった。それだけです。
一番最初に、自分を縛っている自分基準、こうあるべき、こうしたほうがよい・・・これが普通・・・それはいけない・・・そんないろんなことのなかで、とても重要にかんじていた要項におもいっきりはむかったのが、この”彼のことも大切に思いたい”という気持ちを認めてあげた時なのかもしれません。
そして、その気持ちと行動は、自分基準にははむかってはいるのですが、それと同時に、今の自分を大切にしてあげた瞬間でした。
私は、”彼のことを大切に思うこと”を自分に許可しました。
言葉がお互いにわからなかった理由は
先の記事の続きです。
出会った頃、面白いくらいに、お互いの使っている言葉があまりにも伝わらないことが多かったという記事を書きました。中でも、見えない世界の話をするとき、それは、もう散々なくらいで、理解はできないは、伝えたいわ、知りたいわで、伝わらないもどかしさ、わからないもどかしさに喧嘩になることも。
一度、言葉がつたわらなさすぎることについて、共通の友人にきいてみました。
彼と出会うきっかけを作ってくれた共通の友人曰く、彼の使う言葉は、彼自身が通っていたとあるスピリチュアル系のスクールで使っていた言葉や、その当時いろんなところから得た知識でつかわれていた表現がほとんどだということをおしえてくれました。彼と同じくそのスクール生だった共通の友人には、その言葉や意味がちゃんと通じるようでした。
それにしても、お互いに置かれた環境が違いすぎていて、同じ世界観を表現するにも、使用する言葉が違っているだけで内容が一発でちゃんと伝わらないんです。
私自身は、幼少から自身のガーディアンとのやりとりはずっとしていましたが、当時はまだ”スピリチュアル”という言葉自体に拒否反応があり、そういったところ(スピリチュアル関係)へ顔を出したことがなかったので、そういった世界では一般的になってるような知識、言葉の言い回しでさえ入っていなくて、ましてや、いろんな事象の表現のされ方なども知らずに、独自の世界観の中だけにいました。
ですので、蓋を開けたら、なんだ、同じこといってるんじゃん・・・・そういったこともしばしばでした。
結局、わかったことは、これまでどおり、わからない言葉は、その都度確認するしかないという結論なのでした。
スピリチュアル系のスクールに通っていたこともある彼ですが、私と出会った頃の彼の口癖は、
「スピリチュアルな事象が、”本当!”、 ”真実!”、っ て感じられる部分があるのなら好き。でも、そう感じられないとしたなら ”くそくらえ”っ て思うくらいにきらい。
・・・というか、むしろ好き嫌い以前に興味すらもわかないものなんだ。私をスピリチュアルにハマってる人だと勘違いしないで欲しい。
私は、”真実が好き”なんだ。
たまたま、真実だと思えることがあったからスピリチュアルもありって今はおもえているんだよ・・・」
でした。
私のなかで、”スピリチュアル”という言葉、そういったものを扱う現象に特に偏見もあったので、そう言った意味でも、言わせてしまった言葉なのかなと思いました。
その言葉が嫌いだった理由は、また今度。
実は、出会った頃の彼と私は物事の表現方法が全く違って、少しも言葉が通じなかった。共通言語がなかった。
であった当初、彼は本当に私の一語一句、いろんな物事の表現の仕方がわからなかったようです。それは私も同じで、お互いに”それはどう言う意味で使っている言葉なの??”と確認の毎日。
それと同時に彼は・・・、
この人(私)は、真実を話す人か??
この人(私)は、自分にとって信用に値する話をする人か?自分の信頼基準をクリアする人か?
を、見極めてもいたようです。
彼にとっては、”信用”と、”真実”、”信頼”は、特にとても大切なワードでした。
そして、その話をしだすと、彼の言葉が今度は私にとってはとても難しく感じられてわからないものでした。
どうでもいい人なら、内容がわからなくても、適当にウンウンと、そのままスルーでもよかったのですがわからないままにはしておけませんでした。
お互い、とにかくもっともっと相手が知りたかった。
エナジーで、魂で、伝わる全ては、この人をしっかりとつたえてはきているのだけど、現時点、目に見える現実世界の自分たち、相手にも興味がありました。
いま、現時点のお互いの世界観や、考え方の話なんかもしていました。
だけど、すればするほど、そこで出てくる相手が使ってる言葉や、表現されてることでわからいものがどんどんでてきて、その度に確認作業ばかり。
おおがかりな確認作業のすえ、蓋をあけてみると、”なんだ同じことを表現していたのか”・・・ということがほとんどではあったのですが、表現方法が違うだけで、わからない(笑)
なんで、こんなに、困難な作業になってしまったのかは、次の記事で・・・。
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多分、読まれてる皆さんの疑問(子供編:下の子の場合)
前の記事では、上の子のことをかきましたが、次は下の子のおはなしです。
これまで、こちらのブログでは、魂の片割れ、ツインソウルとの出会いと心境の変化をかいていました。
読み進めるうちに、たぶん、読みながらみなさんが気になるのは、子連れだった私の子供のことかなと思いましたので安心して読みすすめていただけるように先に離婚にあたっての子供の様子を少し書いておきたいと思います。
ちょうど、離婚の手続きが年末年始になり、こどもたちの個人懇談の日もかぶってきました。その、個人懇談の席でのお話です。
当時、下の子は、低学年でした。
担任の先生から、子供の学業の話が終わって、離婚の話をと思ったら、
『校長先生から、おうちの事情は、娘さんから聞いてるので事務手続きとかいろんな事も今の時期あせらないので、すべて終わってからで大丈夫ですよーと伺ってます』
と、言われました。
びっくりです。
なんで校長先生??
いつのまにそんなおおごとに~~!!
・・・と思ってしまうかもしれませんが、実際、私も頭の中が?でいっぱいでしたが、担任の先生曰く、当時、校長先生が大好きだった次女ちゃんはおうちであったこと、かれのこと、わたしのこと、実のお父さんのこと、いろんなことを校長先生にあーだこーだとお話していたそうで、それで家の内情がぜ~~んぶつつぬけでした(笑)
先生に、「娘さん、安定して”いつも通り”なので私たちも心配していません」って言われました。
さらに、担任の先生にきいたところ、うちの学校は、それなりに人数もいるんですが、(当時の)校長先生がフレンドリーな方で、子供達とコミュニケーションをとるために、教室中を回ってるそうで、子供たちも話しかけやすいそうでとのことで、なるほど・・・・。
※いまは、校長先生はかわられています。
それにしても、上の子と、下の子の、同じ、学校に離婚の話を伝えるという同じ状況でも、ことの流れ方が違いすぎて、おもしろすぎました。
今回は、どちらかだけでも衝撃的な流れなのに、どちらも、なかなかない流れで本当に人生って面白いです(笑)
離婚に限らず、なんでもそうなのですが、その方々のこれまで見てきたいろんな出来事があって、今回のできごと(今回は離婚)にまつわる概念、そこから生まれた感情、他にもいろいろなものの基準ができて、それをベースにして、目の前にみえるその状況は、人それぞれにいろんな状況に見えて映るのだろうなと思います。
みんな、本当にいろんなことを思っています。
いずれにしても、今回の子供たちに関わるこの出来事は、どちらの先生も娘の事みててくださっていてたからの流れ。
氣にかけてくださったから見えた。そう見えた。そう見てた。
無関心ではなかったからこその発言。
なので、どちらの流れも、当時はびっくりしましたが、今は素直にほんとうにありがたいなと思いまいした。